私たちは、もしかしたら、これまでになく「自分」という存在に迷いやすい時代を生きているのかもしれません。SNSを開けば、誰かの素敵な人生がキラキラと輝いて見えて、社会は私たちに「ちゃんとした何者かであること」を求めてきます。仕事ができる人、素敵な親、あるいは丁寧な暮らしを送る人…。たくさんの役割と、あふれるほどの情報の中で、「本当の自分」という感覚は、まるで淡い霧のよう。掴もうとすればするほど、指の間からすり抜けていってしまう気がしませんか?
多くの人が「自分探し」の旅に出かけます。世界を旅したり、仕事に打ち込んだり、たくさんの本を読んで知識を増やしたり。でも、そういった試みは、しばしば「自分」というグラスに、何かを「足していく」作業になりがちです。きれいな色の飲み物を次々と注いでいくように。でも、いろんな色を混ぜていくうちに、グラスそのものが本来持っていた、美しい透明さは見えにくくなってしまいます。
もし、本当の自分を見つける方法が、「足し算」ではなく「引き算」の先にあるとしたら、どうでしょう。もしその答えが、世界のどこか遠くではなく、今この瞬間の、あなたの心の静けさの中に、すでにあるとしたら。
この記事は、20世紀インドに生きたラマナ・マハルシという聖者の教えをヒントにしていますが、彼の難しい解説がしたいわけではありません。彼がそっと投げかけた「私は誰か?」という問いを、今の私たちにとってのやさしいコンパスとして、心の中のおしゃべりを少しだけ鎮めてみる。そして、言葉が途切れた先にある「静けさ」の中に、温かくて揺がない「自分」の感覚を見つけていく。そんな思索の旅にお連れできたらな、と思っています。
哲学の知識なんて、まったく必要ありません。いるのは、いつも外側に向いている意識を、ほんの少しだけ「自分の内側ってどうなってるんだろう?」と覗いてみる、小さな好奇心だけです。
さあ、一緒に心の静けさへ、そして「私」という、一番身近で最大の謎へと、旅を始めてみましょう。
第1章:ラマナ・マハルシってどんな人? ― ただ静かに「在る」ことを選んだ聖者
本題に入る前に、私たちの旅の道しるべとなってくれる人物、ラマナ・マハルシについて、少しだけお話しさせてください。彼の生き方は、私たちがこれから向かう場所を、そっと指し示してくれる、素敵なプロローグのようです。
1879年、南インドに生まれたヴェンカタラマンという少年は、16歳のとき、突然「自分は死ぬんじゃないか」という、ものすごい恐怖に襲われます。でも、彼はパニックになる代わりに、とっても不思議なことをしました。床にゴロンと横になって、まるで自分が本当に「死体」になったかのように、その様子をじーっと観察し始めたのです。
「この体は、もうすぐ動かなくなる。焼かれて、灰になるだろう。でも、体が死んだら、『私』も本当にいなくなっちゃうのかな?」
その真剣な問いの果てに、彼はハッとするような気づきを得ます。体が機能を止めても、その奥の方で「私」と呼べる意識、ただ「在る」という感覚だけは、少しも揺らがず、静かに輝き続けている。この体験を通して、彼は「そっか、私はこの体でも、コロコロ変わる考えや気持ちでもないんだ。もっと奥にある、ずっと変わらない存在なんだ」と、心で深く理解したんですね。
この気づきの後、彼はすべてを置いて家を出て、アルナーチャラという聖なる山の麓へ向かいました。そしてそこで、ほとんど誰とも話さず、洞窟の中でただ静かに、自分の内なる平和に浸って過ごしました。彼自身は、何かを教えたり、お弟子さんを集めたりするつもりは全くなかったそうです。でも、彼のまとっている、あまりにも深く穏やかな「静けさ」に惹きつけられるように、人々が自然と彼の周りにやって来るようになったのです。
彼の教えの中心は、驚くほどシンプルでした。それは、彼が16歳の日に自分でしたこと、つまり「私って、本当は誰なんだろう?」と、自分の心の奥へ奥へと問いかけていく「自己探求」、ただそれだけだったと言われています。
ラマナ・マハルシのお話は、特別な魔法を使ったりするヒーローの物語ではありません。むしろ、人が持っているものを一つひとつ、名前や家族、知識や役割、そして最後には「探求している自分」という気持ちさえも、そっと手放していった、究極の「引き算」の物語なんです。彼の人生そのものが、私たちがこれから探っていく「静けさ」や「本当の自分」って何だろう?という問いへの、静かで力強い答えのようですね。
第2章:「私」って、一体だれ? ― あなたの毎日から始める、やさしい自己探求
ラマナ・マハルシが問いかけた「私は誰か?」という言葉。なんだか壮大で、哲学っぽく聞こえるかもしれません。でも、これは私たちの毎日の暮らしと、ちゃんと繋がっている問いなんですよ。少しだけ、その問いを私たちの日常に連れてきて、一緒に考えてみませんか?
私たちは普段、当たり前のように「私」という言葉を使いますよね。「私、疲れたな」「私、これが好き!」「私は、会社員です」みたいに。このとき、私たちが指している「私」って、一体なんなのでしょう。
マハルシは、この問いをさらに優しく分解してくれます。
- 「私はこの体なの?」 あなたの体を思ってみてください。私たちの体は、毎日少しずつ変わっています。もし、あなたが体そのものだとしたら、体が変わるたびに、あなたも別人になってしまうのでしょうか? きっと多くの人が「ううん、体は自分の一部だけど、自分そのものじゃない気がする」と感じるのではないでしょうか。
- 「じゃあ、私はこの考えや気持ちなの?」 こちらの方が、もっと「私」に近い感じがするかもしれませんね。私たちはよく、自分の考えや気持ちと自分自身をくっつけて考えがちです。「私は不安だ」と感じるとき、私たちは「不安という気持ちを持っている」というより、「不安な人」そのものになってしまいます。
でも、考えてみてください。考えや気持ちって、空に浮かぶ雲みたいに、現れてはいつの間にか消えていく、一時的なお客さんのようなもの。怒りの雲も、いつかは晴れていきます。もし、あなたが考えや気持ちそのものなら、それらが消えたとき、あなたも消えてしまうはず。でも、そんなことはありませんよね。雲が流れていく青空のように、あなたはいつも、そこにちゃんと存在し続けています。
「私」って、あなたが着ている「役割」の服みたいなものかも?
今の時代、「私」という感覚は、私たちが毎日いろんな場面で着替えている「役割」という名前の洋服のコレクション、みたいに考えるとしっくりくるかもしれません。
- 職場という名の服:テキパキ働く自分、ちょっとドジな自分。
- 家庭という名の服:優しいお母さん、頼れるパートナー。
- SNSという名の服:毎日が充実している、素敵な趣味を持つ自分。
私たちは、こうやって上手に服を着替えることで、社会と関わっています。でも、問題なのは、いつの間にかその「着ている服」を「本当の自分(裸の自分)」だと勘違いしちゃうこと。だから、その服が汚れたり破れたりしたとき、まるで自分自身がズタズタに引き裂かれたような、深い痛みを感じてしまうんですね。
ここで、ちょっとだけ専門的な言葉、「自我(エゴ)」についてお話ししますね。難しく考えなくて大丈夫。自我っていうのは、あなたの心の中にいる、ちょっと心配性で、でも一生懸命なマネージャーさんみたいなものかもしれません。「危ない、傷ついちゃうよ!」とあなたを守ろうとしたり、「あれを手に入れたら、きっと幸せになれる!」と励ましてくれたり。いつもあなたの「物語」がうまく続くように、頑張ってくれています。
このマネージャーさんはとても有能ですが、あくまでマネージャーさん。本当のあなた、つまり会社の「社長」ではありません。「私は誰か?」という問いは、この働き者のマネージャーさんに少しお休みしてもらって、「あれ、この会社の社長って、そもそも誰だっけ?」と、静かに社長室のドアを開けてみるような行為なのかもしれません。
【毎日の中でできる、小さなレッスン】
何か強い気持ち(イライラ、悲しみ、嬉しい!)や、強い考え(「私が正しい!」「どうして分かってくれないの!」)が湧いてきたとき、ほんの一瞬でいいので、立ち止まってみませんか?そして、その気持ちや考えを、まるで映画のスクリーンに映るワンシーンのように、少しだけ離れて眺めてみるんです。
「お、今、心に『イライラ』っていう映画が上映され始めたな」
「『私ってダメだな』っていう、いつもの名場面がまた流れてるなあ」ここで大切なのは、「あ、私、今、眺めてるな」と、眺めている自分自身の存在に気づくことです。スクリーンを眺めている「観客」の自分。その静かな「気づき」こそが、感情のドラマからふっと抜け出して、「本当の私」の部屋の入り口へと続く、最初の小さな一歩になるはずです。
第3章:言葉が消えた後にあるもの ― 「静けさ」の本当の意味って?
「私って誰だろう?」と自分の心を見つめていくと、やがて騒がしかった頭の中のおしゃべりが静かになり、広くて穏やかな「静けさ」の空間に気づくことがあります。ラマナ・マハルシは、この「静けさ(沈黙)」こそが、最高の教えであり、真実そのものだと語りました。
でも、彼が言う「静けさ」は、ただ黙っていることや、音がしないことではありません。それは、私たちの心の中でいつもザワザワしている「思考のおしゃべり」がふと途切れたときに、もともとそこにあったことに気づく、もっと奥深くにある平和な静けさのことです。
「静けさ」は、思考の背景にいつも流れているBGMみたいなもの
私たちは普段、頭の中の思考の「内容」にばかり気を取られています。明日の会議どうしよう、あの時なんであんなこと言っちゃったんだろう…。思考って、まるで一日中つけっぱなしのラジオみたいですよね。私たちは、そのラジオ番組に夢中になるあまり、番組と番組の合間にある「シーン…」という無音の時間、つまり「静けさ」が、いつも背景に流れていることをすっかり忘れてしまっています。
「静けさ」に意識を向けるっていうのは、このラジオのボリュームをほんの少しだけ下げてみて、その奥にある「音のない音」に、そっと耳を澄ませてみるような感じです。
【あなたの毎日にもある「静けさ」の瞬間】
- 好きな曲を聴き終えた後:音楽が終わり、最後の音がふっと消えた後の、あの満たされたような静かな余韻。あの瞬間、頭の中は空っぽで、ただ心地よい「在る」という感覚だけが残っていませんか?
- 森や公園でのひととき:風の音や鳥の声がふと止んだ瞬間。そこにあるのは「何もない」という寂しさではなく、生命感に満ちた、とっても濃密な「静けさ」です。
- 気のおけない友人との「間」:おしゃべりが途切れても、気まずくならず、むしろ温かい空気が流れる時間。言葉を超えた何かが、その「間」で優しく通い合っています。
これらは全部、私たちが普段の生活の中で、無意識に味わっている「静けさ」のかけらです。マハルシが教えてくれたのは、この素敵な時間を、もう少し意識的に、そして大切に味わってみようよ、ということなのかもしれません。
ここで大切なのは、多くの人が勘違いしやすいポイントです。「静けさ」は、頑張って「作り出す」ものではないんですね。それは、思考というノイズのボリュームが下がったときに、自然と現れてくる、私たちの心の「素顔」のようなものなんです。
この「ただ気づいている意識」そのものが、実はとっても静かなんです。だって、その意識は頭の中のドラマには参加しないで、いつも静かで、穏やかで、変わることがないから。まるで、海面がどんなに荒れていても、そのずっと下にある深海は、いつも静かで穏やかなのと同じですね。
「静けさ」は、空っぽで寂しい場所ではありません。むしろ、すべての考えや気持ち、そして生命そのものが生まれてくる、無限の可能性を秘めた、温かい「源」のような場所なんです。その静けさに少しでも触れると、私たちは外側の世界に答えを探し回らなくても良くなります。だって、自分自身の内側に、すべての答えを包み込む、広くて静かな空間があることに気づくのですから。
第4章:問いさえも、そっと手放すとき ― 探求のゴール
「私って誰だろう?」と問い続けることは、とても力強い心の旅です。いつも外側に向いていた意識を自分の内側へと向け直し、思考や感情という波立つ水面から、もっと深い自己の中心へと私たちを導いてくれます。でも、ラマナ・マハルシの教えには、さらに驚くような、そしてとても優しい最終段階があるんです。それは、「『私は誰か?』という問いさえも、最後はそっと手放すんですよ」というメッセージです。
これは、一体どういうことでしょう。旅の大切なコンパスだったはずの問いを、なぜ手放す必要があるのでしょうか。
なぜ問いを手放すの? ― 「探している私」という最後の役割
「私は誰か?」と問い続けているとき、そこには必ず「問うている私」がいますよね。この「真理を探している私」という感覚は、実は自我(エゴ)が最後まで持っていたい、とても魅力的で、スピリチュアルに見える「役割」なのかもしれません。
「私はもっと成長したい」「私は本当の自分を知りたい」という思いは、もちろん素晴らしいことです。でも、「探している私」と「探されている答え」というふうに、自分とゴールが離れている限り、いつまでもゴールにたどり着くことはできません。
マハルシは、このことを、とっても分かりやすい例えで教えてくれました。
「『私は誰か?』という問いは、足に刺さったトゲを抜くための、もう一本のトゲのようなものですよ」
足に刺さった最初のトゲは、私たちの苦しみの元である「私は、この体や考えがすべてだ」という思い込みです。そして、そのトゲを取り除くために、「私は誰か?」という二本目のトゲを使います。この道具は、とっても役に立ちます。でも、最初のトゲがうまく抜けた後、私たちはどうするでしょう? 手伝ってくれた二本目のトゲを、記念にずっと持っておくでしょうか? きっと、そうはしないですよね。二本のトゲは、どちらも優しく手放すのが自然です。
問いを手放すというのは、探求を諦めたり、どうでもよくなったりすることとは違います。それは、探求の旅の果てに、思考が生まれてくる源泉、つまり「私」という感覚が湧き上がってくる、まさにその場所にたどり着いたときに起こる、とても自然なプロセスなんです。
その源泉にたどり着いたとき、「誰が、誰に、何を尋ねるの?」という構造そのものが、意味を持たなくなります。探していた自分(川)と、探されていた答え(海)が、そこで一つに溶け合うからです。もう「川」という個別の存在はなく、ただ広大な「海」があるだけ。そんなイメージです。
この状態は、「やった、答えが見つかった!」という達成感とは、少し違うかもしれません。むしろ、「あれ、問いそのものが、どこかへ消えちゃった」という、もっと穏やかで、満ち足りた感覚です。なくした鍵が見つかった喜びというより、そもそも鍵なんてかける必要がなかったんだ、と気づいたときの、深い安心感に近いかもしれません。
この「問いを手放す」というステージは、頑張って到達するものではないようです。それは、まるで熟した果物が木から自然に落ちるように、ふっと訪れるものなのかもしれません。
それは、探求という旅の終わり。そして同時に、ただ「在る」という、本当の安らぎの始まりなのですね。
第5章:時代が変わっても色褪せない教え ― なぜマハルシの言葉は、今も心に響くのか
どんな思想や哲学も、生まれた時代の空気感をまとっているものですよね。でも、ラマナ・マハルシの教えに触れると、なんだか不思議な気持ちになります。彼の言葉を理解するために、彼が生きていた時代の歴史を詳しく知る必要が、ほとんどないんです。
彼が生きていた時代(1879〜1950年)のインドは、本当に大変な時代でした。イギリスに支配され、独立運動が燃え盛り、二つの世界大戦があり、西洋の新しい考え方がどんどん入ってきました。その同じ時に、マハルシはアルナーチャラの山で、ただ静かに座っていました。まるで、激しい嵐が吹き荒れる中で、彼の周りだけが「台風の目」のように、完全に穏やかで静かだったのです。
心に深く届く言葉は、人の「表面」ではなく「中心」に語りかける
なぜ、マハルシの教えは、こんなにも時代から自由なのでしょうか。それはきっと、彼の問いが、人間という存在の「階層」の一番深いところに、まっすぐに届くからなのかもしれません。
人の心を、タマネギみたいに想像してみてください。
- 一番外側の茶色い皮:文化や社会、政治といった、時代や場所で全然違う「環境の層」。
- その内側の層:性格や価値観、思い出といった、人それぞれの「心の層」。
- さらに内側の層:嬉しい、悲しい、腹が立つといった、誰にでも共通する「感情の層」。
- そして、タマネギの中心にある芽:考えや気持ちが生まれるよりもっと前の、ただ「いる」という純粋な存在感、意識そのもの。「存在の層」。
多くの思想家たちは、タマネギの外側の層で起こる問題について考えます。だから、彼らの言葉は、その時代や文化の文脈と一緒に理解する必要があるんですね。
一方で、マハルシの「私って誰だろう?」という問いは、これらの外側の皮を全部通り越して、タマネギの「中心の芽」に、そっと触れるようなものなんです。
「『私』って、そもそも何?」
「『いる』って、どういうこと?」
「意識って、いったい何?」
これらの問いは、あなたが21世紀の日本に住んでいようと、ずっと昔の時代に生きていようと、人間である限り、誰もが心のどこかで抱いている、一番シンプルで、一番深い問いです。それは、流行りの服(ソフトウェア)の話ではなく、私たちを動かしている根本的な仕組み(OS)の話だからです。
だから、マハルシの言葉は古くならないんですね。何十年も前に語られた言葉なのに、まるで「今の自分」に直接語りかけられているように感じるのは、そのためなのかもしれません。彼の言葉は、特定の時代の悩みに効くお薬というより、どんな時代でも変わらない「存在そのものの不思議さ」を照らしてくれる、やさしくて力強い灯台の光のようですね。
第6章:「伝える」って、むずかしい? ― なぜシンプルな教えは、複雑になっていくんだろう
ラマナ・マハルシの教えが、どうしてあんなにシンプルで、ピュアなままでいられたのか。その理由を考えてみると、「真理を伝える」という行為が、そもそも持っている、ちょっぴり悩ましい性質が見えてきます。
「マハルシは伝える気がなかったからシンプルだけど、本気で教えを広めるなら、いろんな教義が必要になる」
これは、真理を探求する上で、本当にその通りだなあ、と感じる視点です。
マハルシには、自分の教えを広めたいという気持ちが、ほとんどありませんでした。彼は、まるで「湧き出る泉」のような人だったのかもしれません。喉が渇いた人が自分でやってきて、好きなだけ水を飲んで、元気になって帰っていく。泉自身は、「さあ、私の水を飲んでください!」と宣伝したりはしないのです。
でも、もしあなたが、その泉の水の素晴らしさを、まだここに来たことがないたくさんの人にも届けたい、と心から願ったとしたら、どうするでしょう?
きっとまず、泉の場所がわかる「地図(教えの体系)」を描きますよね。安全な行き方や、途中で気をつけることを書いた「ガイドブック(ルールや戒律)」も作るかもしれません。水を遠くまで運ぶための、便利な「入れ物(儀式や瞑想法)」も考えるでしょう。そして、水をみんなに配るための「組織(グループや教団)」も必要になるかもしれません。
これこそが、多くの素晴らしい教えが、始まった当初のシンプルな輝きから、時が経つにつれて、少しずつ複雑なシステムになっていく理由なんですね。
「ピュアな体験」と「分かりやすい教え」は、少しだけ両立が難しい
ここには、どちらも大切だからこそ悩ましい、トレードオフの関係があるようです。
- ラマナ・マハルシのスタイル(伝えることを目指さない聖者)
- 良いところ:教えの純度がすごく高い。本質からブレない。
- ちょっぴり難しいところ:心の準備ができた、ごく一部の人にしか伝わりにくい。
- お釈迦様や他の先生方のスタイル(伝えることを目指す教師)
- 良いところ:たくさんの人に届けるための「仕組み」がある。初心者でも一歩ずつ学べる。
- ちょっぴり難しいところ:仕組みが大きくなるにつれて、最初のピュアな体験が、少しだけ薄まってしまうことがある。
この悩ましさは、宗教や哲学だけの話ではないですよね。例えば、天才アーティストが生み出した、言葉にできないほど感動的な作品。それを評論家が「この作品の素晴らしさは、3つのポイントにあります」と解説した途端、なんだか感動が色褪せて、ただの「知識」になってしまったように感じること、ありませんか? それと同じ構造なのかもしれません。
私たちは、この悩ましいバランスの中で、いつもどちらかを選んでいるのかもしれません。誰かが親切に描いてくれた「地図」を頼りに、安全な道を歩くのか。それとも、地図を置いて、自分の足で知らない道を歩き、自分だけの「泉」を探してみるのか。
マハルシの生き方は、後者の道の可能性を、ただ静かに、でも、とても力強く教えてくれています。彼は、豪華な「フルコース料理(完成された教え)」を用意してくれるわけではありません。その代わりに、「火の起こし方と、美味しい食材がどこにあるかだけは教えるから、あとは自分で、好きなように料理してごらん」と、私たちの力をどこまでも信じてくれているかのようです。
おわりに:あなたの心の、静けさへの旅
私たちは、ラマナ・マハルシという静かな灯台の光を頼りに、「私」という不思議な海へと、一緒に旅をしてきました。
まず私たちは、「私」という感覚が、本当は体でも、コロコロ変わる考えや気持ちでも、私たちが毎日着替えている「役割」という服でもないのかもしれない、という可能性に触れてみました。この気づきは、私たちを日々のちょっとしたドラマから少しだけ自由にして、静かな観客席へと座らせてくれます。
次に私たちは、頭の中のおしゃべりが止んだ後に訪れる「静けさ」の、本当の意味を味わってみました。それは空っぽで寂しいものではなく、すべての生命がそこから生まれてくる、豊かで創造的な「心のふるさと」のような場所でしたね。
そして旅の最後に、私たちは「私って誰だろう?」という大切なコンパスさえも、いつかはそっと手放すときが来ることを知りました。それは、「探している私」がいなくなったとき、問いと答えが一つに溶け合う、安らかで、満ち足りた瞬間でした。
「私って、誰なんだろう?」
この問いへの最後の答えは、どんな本の中にも、どんな賢い人の言葉の中にも、きっとありません。
答えは、今、あなたがこの画面からふと目を上げて、静かに息をしてみたときに訪れる、その「静けさ」の中に、もうすでにあるのかもしれません。
その静けさの中で、問いは自然に消え、ただ「在る」という、どこまでもシンプルで、穏やかで、満ち足りた感覚だけが、あなたを優しく包み込む。
それこそが、私たちが心のどこかで、ずっと探し続けていた「本当の自分」の温もりなのかもしれませんね。
長い旅に、最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
あなたの毎日が、ふとした瞬間に訪れる静けさで、少しでも豊かに彩られますように。