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なぜ「どうせ死ぬ」という事実に、絶望する人と自由になる人がいるのか?

「人間はいつか必ず死ぬ」「私たちの悩みやこだわりは、すべて壮大な思い込み(幻想)に過ぎないのかもしれない」

もし、あなたがこんな考えに触れたとしたら、どう感じるでしょうか。ある人は「なら、何をしても無駄だ」と虚しさを感じて絶望し、またある人は「そんなものに縛られなくていいんだ!」と、心が軽やかになり自由に生き始めるかもしれません。

同じ「真理」とも言えるような事実に触れても、なぜ人によって光になったり、闇になったりするのでしょうか。そして、そもそも、このような話を「聞きたくない」と拒絶したり、まったく心に響かなかったりするのはなぜなのでしょうか。

この記事では、そんな人間の心の不思議な仕組みを、3つのステップに分けて紐解いていきます。


目次

第1章:耳を塞ぐ心の壁 ― なぜ「真理」は聞こえないのか?

人生の根本に関わるような事実に、良い悪いといった反応を示す以前に、そもそも「興味がない」「聞きたくない」と感じる人たちもいます。これは、その人の心が鈍感だから、というわけではありません。多くの場合、自分を守るための「心の防衛システム」が働いているのです。

1. 「自分」というイメージを守りたい

私たちは誰しも、「自分はこういう人間だ」「こんな人生を送るべきだ」という、自分だけのストーリーを持っています。例えば、「努力家で、成功している自分」や「周りから頼りにされる、意味のある自分」といった自己イメージです。

しかし、「すべては移ろい、確かな自分などいない」という考えは、自分が大切に築き上げてきたストーリーを根底から揺るがす「破壊者」のように感じられます。そのため、自分の価値観を守ろうとして、無意識のうちにそうした考えに耳を塞いでしまうのです。

2. 日常が忙しすぎて、考える「余白」がない

仕事や人間関係、SNSからの刺激などで毎日がパンパンに詰まっていると、心に「静かな時間」がなくなってしまいます。人生の根本的な問いは、騒がしい場所ではなく、ふとした静寂の中で心に染み込んでくるものです。常に何かに追われている状態では、そうした声を受け取るための精神的な余白が生まれません。

3. まだ「その時」ではない

風邪をひいた時に滋養のあるものを体が欲するように、心もまた、本当に必要になった時に初めて真理を求め始めます。大きな挫折や大切な人との別れなどを経験し、今までの価値観では乗り越えられない壁にぶつかった時、人は初めて「本当のこと」を知りたいと願うのかもしれません。

このように、真理が心に届かないのは、拒んでいるというより、その人自身を守るための「心の壁」がまだ必要だから、と言えるでしょう。それは誰にでもある自然な防衛反応なのです。

第2章:光か闇か ― 真理が「劇薬」にも「良薬」にもなる分かれ道

では、いよいよ心の壁を越えて、人生の根本的な事実に直面した時、なぜそこから光の道と闇の道に分かれてしまうのでしょうか。その分岐点は、主に3つの「心の状態」の違いにあると考えられます。

1. 「自分」へのこだわりの強さ

ここで言う「自分」とは、先ほど触れた「『私』という物語」のことです。

  • 闇(絶望)に向かう人:「自分」という物語への執着が非常に強い人です。「死んだら自分が消える」「全てが幻想なら、頑張ってきた自分は何だったんだ」と、自己の消滅や無価値観への恐怖に直結してしまいます。
  • 光(自由)に向かう人:「『私』なんて、もともと状況によって変わる曖昧なものだ」と、しなやかに捉えられる人です。「確固たる自分なんていない」という事実が、「こうあるべき」という思い込みからの解放につながり、「じゃあ、もっと自由に自分を創り変えていいんだ」という希望になります。

2. 心を支える「土台」の有無

大きな真実に触れることは、人生を揺るがす大地震のようなものです。

  • 闇(絶望)に向かう人:知識や理屈だけで生き、「頭」が非常に大きい状態の人です。安定した人間関係や、自然とのふれあい、自分の体で何かを感じる感覚といった、心を支える「土台」がありません。そのため、価値観が揺らいだ時に支えがなく、そのまま虚しさの底へ落ちていってしまいます。
  • 光(自由)に向かう人:人生にしっかりとした「土台」を持っている人です。それは信頼できる家族や友人、美しい風景に感動する心、スポーツや趣味で得られる身体の感覚などです。こうした「根っこ」が張られている人は、頭で考えた価値観が崩れても、存在そのものが揺らぐことはありません。

3. 自然や身体との繋がり

真理の受け止め方が「頭だけ」か「心と身体全体」かも大きな違いを生みます。

  • 闇(絶望)に向かう人:頭の知識だけで真理を理解しようとします。身体の感覚や自然との繋がりが希薄なため、真理は無機質で冷たい「情報」となり、虚しさや孤独感を深めてしまいます。
  • 光(自由)に向かう人:思考だけでなく、身体で「感じる」ことを大切にします。例えば、呼吸に集中する瞑想、大地を踏みしめる感覚、風の音に耳を澄ますといった体験です。ヨガや瞑想が「安全な道」と言われるのはこのためで、身体感覚を通すことで、真理は温かさや静けさを伴った「実感」として心に染み渡ります。

4. 信頼できる「導き手」の有無

独りで探求するか、対話できる相手がいるかも重要な分岐点です。

  • 闇(絶望)に向かう人:独学で考え込むと、自分の解釈が偏っていても気づけません。「知だけで悟りに近づこうとすると、途中で壊れる」と言われるように、間違った方向に深入りし、一人で抜け出せなくなる危険があります。
  • 光(自由)に向かう人:信頼できる指導者や、共に学ぶ仲間がいます。対話の中で自分の偏った見方を修正し、疑問をぶつけることで、より安全に深い理解へと進むことができます。これは、独りよがりな「悟ったつもり」になるのを防ぐ、大切なセーフティネットの役割を果たします。

つまり、同じ真理に触れたとしても、それが冷たい「知識」のままであるか、それとも自分の人生や身体と結びついた温かい「実感」であるか。そして、その道を一人で危なっかしく進むのか、信頼できる誰かと共に歩むのか。その違いが、絶望と自由の分かれ道となるのです。

結論:壊れた先にある、本当の静けさ

「いつか死ぬ」「すべては幻想」といった事実は、一見すると私たちを無気力にさせる冷たいものに思えるかもしれません。そして、それに触れることは、今まで信じてきた「自分」という世界がガラガラと壊れるような、怖い体験かもしれません。

しかし、提供された文章は、その先にあるものをこう示唆しています。

大丈夫、壊れたあとに本当の静けさがあるよ

自分を縛っていた「こうあるべきだ」という思い込みの壁が壊れた時、そこには恐怖ではなく、広々とした自由と、何にも脅かされることのない穏やかな静けさが広がっているのかもしれません。

もしあなたの周りに、こうした真実に触れて苦しんでいる人がいるとしたら、「どう伝えるか」を考えるよりも、ただ静かに、意味づけをせずに寄り添うことの方が、温かい光を届けるきっかけになるのではないでしょうか。

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